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蛍狩り
 ずいぶん長いこと蛍を見てない。あれは、五、六年まえのことだろうか、弟家族が住む山梨の小淵沢で見に行ったことがある。その時も弟が少し興奮気味に、しかし声を落として、

「近くに、蛍が居る沢があるんだよ。夜になったら行ってみようよ」

と言い、それを聞いて私が、

「本当?いこう、いこう!」

と蛍に悟られないように、小さな声で答えて、夜になってから皆で見に行った。皆、車を停めてからもヒソヒソ話で、息を殺して見に行ったおぼえがある。

 先日その場所を弟と通ると、道路の拡張と川の護岸工事が行われていた。

「ここに居た蛍も、もう居なくなっちゃったね」
「もう居ないね」

と寂しい会話を交わした。

 それより前の蛍の思い出は、都内にある某有名結婚式場の庭で見た蛍だ。蛍が大好きな人からの招待で、夕食をいただいた後、庭に出ると、かなりの数の蛍が飛び交っていた。しかし、そこの蛍は所詮連れてこられた蛍、集合している場所も数も不自然だった。  

     


 

 昭和三十年、私が小学校三年生の頃、蛍は見るものではなく、狩るものだった。大きな子は竹箒、小さな子は草箒を手に持って、網目の小さな虫かごを持ち蛍狩りに行った。只、蛍が光って見えるのは、当然ながら暗くなってからだ。必ず大人の付き添いが居た。そして、狩った蛍は夕方張った蚊帳の中に放って、しばらくその明かりを楽しんでから眠りについた。翌朝、蚊帳をかたづける時、蛍は戸外へ放たれた。当時は今のような冷房設備もなく、空き巣も居なくて、またそれ程の財産もなく、各家とも全ての戸を開け放って蚊帳を吊り、自然の風の中で寝ていた。そんな時の蚊帳の中の蛍の光は、幼い子供たちにとって幻想的で、様々な夢を与えてくれるものだった。朝起きるとあの小さな身体から光を出し尊敬に値する蛍は、ただの黒い虫になっていて驚き、少々がっかりもさせられた。

 その日の夕方前

「蛍狩りに行こう!」

と言い出したのは、兄達だった。兄ともう一人、修ちゃんが最年長で中学二年生、それに、ひとつ下の英ちゃん中学一年生、この三人は運動神経抜群、常に身体を動かす遊びをしていた。その三人と二人の味噌っかす、私と、英ちゃんの弟の明だ。二人とも小学三年生だった。

 当時は皆学校から帰るとすぐ外に出て遊んだ。早く帰った低学年が低学年の遊びを始める。そこに高学年が加わり、少し高度な遊びになる。そして中学生が帰ってくると、動きも、力もいる遊びになり、低学年生は遊びによっては、味噌っかすとなる。ゲームの勝敗には加算されない。上級生の周囲をチョコチョコと動き回っている。兄達も決して邪魔にする訳ではない。こうして高学年の遊びを覚え、兄たちの力を見せ付けられていく。

 年上のものがよく年下の面倒を見た。また、見なかったら親からこっぴどく叱られるという理由もそこにはあった。

 さて、その上級生の兄たちの蛍狩り計画はこうだ。

 大人が付いていかない蛍狩りは、きっと見つかれば叱られる。だが、行きたい。よって、暗くなる前に行く。そして、目的地に着いた頃暗くなるだろう。蛍狩りをサッサとして夕食までには帰ってくる。と実に単純なものだった。

 私も明も興奮した。

「今からおとなにもないしょでホタルがりに行くんだ」

 顔を紅潮させて兄たちの後を追いかけた。

 山に近い、神社の裏の水田を幾つか越えたところに目的地はあった。水田に引く水が流れている小さな川があり、その上流に溜池があった。葦がしっかりと生えていて、溜池の大きさがどの位なのか分からない。まだ蛍は一つも見つからない。兄たち三人は溜池の右の方へ入って行った。そこには一軒家があって、その住人は農業と猟師をして生活していると聞いていた。私と明は池の左側で蛍を探していた。辺りは少しずつ暗くなり始めていた。

「あっ、いた!」

 川の茂みの中に一匹の蛍が光った、すると、それを合図のようにもう一匹が光った。

「いた!こっちにも!」

 とその時だ。

{ウォン、ウォン!ウオー、ウォウ!}

 犬の声がした。と同時に兄たちの逃げる足音が聞こえた。

{ウォウ、ウォン!}

 明と私は顔を見合わせた。

「あっちだ!」

 二人はそろって山のほうへ逃げた。兄たちは里のほうへ一目散に走っていく。

{ウォン!ウォン!}

 犬の声が大きくなって、近づいてくる。息を殺して聞き耳を立てる。

{ウォン、ウォン}

 兄たちを追いかけて行ったようだ。

 私と明は、とにかくその場から遠ざかろうと、山の上へ上へと逃げた。そう言えばあの猟師の家には黒い大きな犬が居て、我々が近くを通るといつも吠えていた。       

 犬の顔が思い出されると、ますます逃げなくてはと思い、必死になってよじ登った。明が少し遅れた。待っていると、明はしゃくりあげて泣いていた。実は私も泣き出したかったが、明の泣き顔を見たら泣く訳にはいかなかった。記憶をたどって左上へと登り始めた。その時、私の足が木のつるに絡まり、長靴を片方飛ばしてしまった。

 その頃になると、もうすっかり日は落ちて林の中は真っ暗になっていた。手探りで長靴の飛んだあたりを探すが見つからない。つい先日買ってもらったばかりの新品の長靴だ。

 これからまだ、足が大きくなることを見越して少し大きめの長靴だった。

 明のしゃくりあげに、声が混ざってきた。

「明、おれ、もう少し長ぐつさがしていくから、さきに帰れ。この上に出れば道がある、それを左に行けば帰れるから」

 明はどうしていいのか分からず、さらに声を上げて泣きじゃくったが、

「犬がまた来ないうちに帰れ!」

と言うと、ビクッとなって山の上に登っていった。

 一人になった私は、どの位手探りしただろうか、暗闇に目が慣れて、星の薄明かりで山の稜線が、ぼんやりと分かるようになった頃、あきらめて、山に登った。片方は裸足のままで。

「なんて言ったらいいんだ」

 買ってもらったばかりの長靴、やってはいけない子供だけの蛍狩り。

(おこられるだろうな。明はどうしたろう。兄ちゃんたちは?)

 泣けてきた。泣きながら小走りに山道を下った。片方だけの長靴が重い。長靴の無いほうの足は痛い。いつも左へ曲がる道で、瞳がぼやけていたのか、気持ちが焦っていたのか、近道をして斜めに突っ切った。

「うわ〜〜〜〜!」{ドスン、ガタン!}

 一瞬何が起こったのか分からなかった。お尻と背中を打ったみたいだ。暗さに慣れた筈の目にも、何も見えない。とにかく道路より下に落ちたみたいだ。ゆっくりと上を見ると、丸い額縁の中で星が輝いている。

「そうか、あの井戸に落ちたんだ」

学校からの帰り道、時々寄り道してのぞいた古井戸だ。下の方に少し水があって、大きな、どんびきしょ(ひきがえる)が二、三匹いて、捕りたいと思っていた井戸だ。今その中に座っている。

「カエルをつぶしたかな?」

尻の辺りに手をやるが、カエルの感触はない。周りの状況が分ってきたが、さてどうしたらいい。カエルを捕りたくても入れないほど深い井戸だ、出ることが出来るのか。 井戸の下の方は丸い石を積み重ねて作られていた、足と手で少しよじ登れそうだ。もう泣いている場合じゃない。

 慎重によじ登ってきたときだ。

「オーイ、敏ちゃーん」
「オーイ」

 私を捜す兄たちの声だ、石にしがみついて助けを呼ぶ。

「オ〜〜〜〜〜イ。ここだよ〜〜〜〜」

 兄たちの声が近づいて来た。彼らも驚いたに違いない。古井戸の中から声が聞こえるんだから。

 出口の周りだけコンクリートで固められていて、それ以上は登ることが出来なかったが、さすがに運動神経の塊の兄たちは、しっかりと組んで私を上に引き上げてくれた。上に出ると、驚きの顔の明がいた。

 どうやってそこから帰り、どう親に謝ったのかは覚えていない。兄と私の報告を聴いた母も父も叱らなかった。体を洗い、着替えたあと、夕食をとるように言い。食べ終わると父は、

「さあ、蛍狩りと長靴狩りにいくか」

と、今まで履いていた古い長靴を履かせ、私の手をとり、懐中電灯をつけ、兄を先導に歩き出した。落ちた古井戸を照らして確認し、長靴を飛ばした場所を捜した。あれだけ捜して見つからなかった新品の長靴は、藤の蔓が巻きついている松の木の根元に簡単に見つかった。

「犬が、ほえないね」

と兄の顔を見ながら言うと、父が話してくれた。

 あの一軒家のおじさんは近頃怒っているということ。何故ならこの頃、蛍狩りの子ども達が来て、田んぼの土手を崩し、水を止めたり、流れを変えたりしてしまうから。だから、子供だけで来たみんなに、犬を放したんだろうということ。

 捜し出した片方の長靴を右手で大事に抱え、左手で父と手をつなぎ周りに目をやると、あれだけ探した蛍が草むらにも空にも、

「こんなに!」

と言うほど沢山飛び交っていた。

父が懐中電灯を消した。いつの間にか月が上がり、その月明かりと無数の星と無秩序に飛ぶ蛍の明かりの中を家路についた。

おわり


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